About 2011年09月

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2011年09月 アーカイブ

2011年09月03日

四か月ぶりの原因

ブログもすっかりご無沙汰でなんと4か月お休みしました。
ずいぶんと昔のよう・・・。
そうね、休んだ原因は解ってます。Twitterです(笑)。
震災以後、親友のフミコから言われて始めたTwitter。
なんだかんだと毎日つぶやいてますから、ブログ以上に日々を綴ってるような気がして
ついついブログは遠のきました。
それもあって、ホームページにも僕のTwitterページを貼りつけたのです。

まあ、そんなこんなでこの4カ月いろいろなことがありましたね。
旅に出たり、具合悪くて少し休養したり、展覧会したり、友人が大臣になったり・・・
かなり内容の濃い毎日だったように思うんです。
だからボチボチ昔のブログも書いていこうと思います。

今現在は相変わらず、あっちにこっちに飛び回りながらも
制作もばっちりしています。
今後の予定は今月末には長泉美術展の展示と新たな教室開講。
10月までは大作と注文画の制作もあって、いつものように京都にスケッチ旅行。
11月にはグループ展と起雲閣での10日間の個展。
12月はカンボジアに行こうかと考えています。
まあ、忙しいながらもマイペース・無理はしないのが僕なので(笑)

今後とも『武典ブログ』をよろしくお願いいたします。

2011年09月05日

細野豪志大臣就任について

ご存じのように、僕の親友の細野豪志衆議院議員が大臣になった。
またこの度の野田政権でも環境大臣、原発担当大臣に再任された。

実に12年以上の付き合いになるのだが、正直友人としては喜び半分だ。
今までのような情勢で大臣になったとなれば大騒ぎして喜んであげたいが、
今回の日本の国難と言える状況下では本当に大変だろう。

僕たちが出会った当時、僕も大学を中退して間もなく、社会に出たばかり。
彼もサラリーマンを辞め、政治家を目指して落下傘で伊豆に来たばかりだった。
地盤、看板、カバンといた全てが無く、今からは想像もできないくらいの貧弱な(笑)若者だった。
その頃に彼のそばにいたのは大学時代・サラリーマン時代の友人数人と
奥さんと子供、僕ぐらいのもんじゃなかったかな。
毎日しつこいぐらいに細野から電話がかかってきたのは今では良い思い出だ(笑)。
それからも友として、同志として、兄のように慕ってきました。

それが今や大臣です。彼の力もあるけど、家族、応援してくださった皆さんのおかげ。
もちろん、僕がその頃から彼に惚れ込んだのはそれだけの器と空気を感じたからです。
目、話、姿勢・・・貫禄は無かったけど(笑)何もかもが秀でて見えた。輝いてた。
この人なら日本が何とかなるのかもって信じて本当に良かった。

最近は僕のところにも細野豪志さんにどうこうして欲しいと言ったメールが来ます。
『原発をこうして欲しい』、『会うにはどうしてら良いか?』、『放射能の危険を知ってるんでしょ?』
などなど・・・。
まあ、確かに親しい仲ではありますが彼の仕事にどうこう言うつもりはない。
もちろん、僕が思ったことは正直に言いますよ。
だけど、人に言われて僕もどうこうする人間ではないのでごめんなさい。
そういったメールはどうぞ細野豪志事務所に送ってください。

まあ、事務所の応対が悪いようでありましたら僕が事務所にはしっかり注意します(苦笑)。
先日も事務所に相談したが、愛想が無く、忙しいと言って切られたとメールをいただきました。
もちろん、秘書にはしっかり伝えましたし、その後はしっかり応対いただいたよう。
親しい仲ですが、そういったことは大切なことだからあえてここに書きます。
まあ、本当は僕が言うことじゃあないんだけど、みんな事務所にも嫌われるのを嫌がって
言わないみたいなんだよね。

今回の就任でもその直後に彼から携帯にメールが来た。
内容は書けないけど、そうなんだ・・・って思った。
とにかく、彼は頑張ってくれます。皆さん信じて応援してください。
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就任のお祝いに節電用の手書きうちわを届けた夏の写真。
僕はクーラーが効いてなくてこの疲れ顔(笑)。

2011年09月07日

その程度という言葉

8月11日の朝、母が怪我をした。
毎日散歩をしている我が家の目の前、熱海サンビーチの親水公園内でのことだった。
朝方のことで、僕は知らなかったのだが近くにいた人にお世話になり、
自宅まで連れて帰ってきてもらったようだった。
普段のように朝の散歩をしていて、靴に下から出ていた釘に引っ掛かり
そのまま前に転倒したようだ。
『みんなが救急車を呼ぶって言ってくれたけど、犬もいたし・・・』
そういう母の右手は紫に腫れあがり、ゾウのような腕になっていた。
足は擦り剥いて血だらけだったようだ。

母は一人で行けると言うのですぐにタクシーで、母の妹の付き添いで病院に行ってもらい、
僕は現場を見に行った。
現場は親水公園内の木製の通路デッキ。見るとあちこちにネジが突出し、
これでは靴が引っ掛かるのは無理もない。
9.07.bmp
僕はその現場の管理者である市役所にすぐ電話を入れた。
責任部署は観光施設課。
とにかくすぐに現場に行って状況を見るように、そしてすぐに修繕をするようにきつく伝えた。
明日では遅い!今日中に直しなさい!と強く意見した。
その後、橋本県議会議員と高橋市議にも伝え、とにかく市の管理不足、
観光地の まして海水浴客が多い観光場所にこういった現場があるのはとんでもない!と話した。

橋本県議は朝のうちに早速現場に行き、状況を見て、母の見舞いにも来てくださった。
その時の県議のブログもご覧ください。
周辺の人に聞けば、今までも何度もこのクギが原因で怪我をした人がいるそうだ。
なのに市は一向に動くことは無かったという。
『課長、あなたたちは一体何の管理をしてるの!?』ついに僕にスイッチが入った。
こういった僕のような言いたいことを言える人間は良い。
今まで何人も悲しい痛い思いをしながら何にもしない行政が酷く悲しかった。
その後、高橋市議からもしっかりと今日中に直すと市から報告があったと連絡をいただく。

病院から帰ってくると、幸いにも骨折はしていなかったが、しばらくは右手は使えない
とのことだった。言われるより、本人の症状を見てとても使えないのは分かった。
母がもし朝に一人で、うちどころが悪かったらどうなっていたことだろう・・・。

市は当日のうちに現場近く全てを修繕したと、課長以下皆さんで伝えに来た。
もちろん、すぐに市長にもと思い彼の携帯に電話したが留守電。
秘書に言うと夏休みとか・・・・。
次の日には副市長が見舞いに来てくれた。
見舞いに来る来ないの話ではない、こういった現場を作ってしまうこと、
放置してしまう管理、そして市の応対が悪いのだ。
1時間ほど副市長ともそういった話をした。
夏休みを終えた市長も母へ見舞いに来てくれた。
その後、母も少しづつ回復をしたが結局、経営する店は1カ月閉めることになった。

その後も市の対応を静かに見ていたが、特に連絡すらなかった。
僕から連絡すると、今連絡しようと思ったと・・・・。ふーん。
いろいろな話の中で市側が 『その程度の状況ですと・・・』 と言った。
僕は その程度 って何なんだと?立腹した。
人が一人怪我をし、一か月大好きな仕事もできなくなった。
その状況を管理できなかったのは紛れもなく行政だ。
もちろん、注意をしなかった母が全く悪いとは言わない。
管理不足を棚に上げて、その程度とはまったく不届き千万だ。
このお役所仕事と何よりこの言葉にはどうしても許せなかった。
僕の中の正義が吠えていたよ(笑)。

で、本日、市長、観光文化部長、観光施設課長に市長応接室でガンガン意見を言いました。
年配の人に意見するのは悲しいけれど、人として町を思うが故です。
議会開催中で市長の時間はとれないとか言っていたが、
『僕の約束だよ』といったせいか時間はとれた(笑)。まあ、この状況下では当然でしょう。

市民に対するサービス向上、市民のための政治、観光地熱海の安心安全。
『市長、最近あなたが強すぎんじゃあないの?』と僕。
『そんなことないですよブデンさん、これを教訓にしっかりやります』ですと。
結局、誰かが痛みを伴わなければ現場は動かない。
先のサッカーの松田選手も命を通じてAEDの必要性を伝えたのかもしれない。
そうじゃあ駄目なんだけどな。だから政治家がいるのに・・・。

とにかく、治療費含めて市からは何の保証もない。
怪我をさせた現場を直すのは市税を使って業者を雇い、賃金は支払う。
もちろん、しっかり管理をしなかった職員も市長も給料はもらう。
怪我をした人は勝手に治してくださいってことのようである。
もちろん、そんなものをいただくつもりも一切無いが、人によっては一カ月仕事をなくすことは
『死』を意味することもある。生活できない人もいるかもしれない。
一年、いや一生不自由な体になる人もいるもかも・・・。
それでも『その程度』で済むのだろうか?

できないを当たり前、その程度と言った市をもう少し見ていたいと思う。
保障どうのこうのじゃない、僕が言いたいのは市民を思う考え方だ。
怪我をさせない、放射能の危険から子供たちを守るといったような強い考えと行動を期待する。
たぶん、この役は僕にしかできないのだと思うから。

最近、思うんだけど、市議会議員が機能をを果たしていないような気がする。
しっかりやってる人はいるけれど、3分の2、いや4分の3の議員は当選して終わってません?
あなたたちの仕事は選挙にうかることじゃあないですよ。
市民の小さな言葉も市政に届けることが仕事なんじゃあないか?
胸に大きな花とバッチを付けて来賓として祭りに出ることがあなたたちの仕事じゃあない。
それは当選するための自分自身の利益のためのパフォーマンスですよ。
もう少ししっかりして欲しい。

弱い人は沢山います。皆がしっかり意見できる市政、
言えなければそれを代弁する市議でなくてはいけないでしょ?
もちろん、何より市役所はサービス業だという認識を持って欲しい。
熱海人として切に願う。

2011年09月09日

重岡建治先生のこと

今から15年ほど前に、足を痛めて伊東に温泉治療に行ったことがありました。
治療と言っても、その頃大変可愛がってもらっていた勝又さんという老夫婦が
お誘いくださり、一週間僕のために旅館の個室をとってくださいました。
素晴らしい料理に宿でただのんびりとして、それは楽しい療養だったのです。

大学在学中で僕が彫刻を専攻していたこともあり、それを気遣ってか
せっかく伊東に滞在してるのだから旅館に籠ってばかりでなく
伊豆高原の彫刻家の先生のアトリエに行ってみようと伺ったのが
彫刻家の重岡建治先生でした。

伺うと先生は満面の笑顔で迎えてくださり、丁寧に作品を一つ一つご説明くださった。
作品集をいただき、そこに直筆でサインと絵も描いていただいたのは今でも宝物です。
また、その時に助手をしていたのが僕の高校時代のクラスメイトのお父様でご縁を感じた。
それからは特にお目にかかることは無かったですが、年賀状やお手紙のやり取りはあって、
伊東市に行くと先生の作品を拝見し、その素晴らしさにいつも感動していた。

思い起こせば先生の作品は以前からよく知っていた。
一番身近な作品は我が家の隣の三木製菓さんにある天使の像でした。
改装する前、店の正面に飾られていたその作品を見上げ、なにか心に響くものを感じていた。
そんなこんなのご縁から、何とか先生の作品を手元に置きたいと常に思っていたのでした。

僕は勉強のために日本画や古美術、彫刻作品などを収集している。
もちろん、僕のような若輩絵描きが高価な作品は購入できないが
少しずつ食費を削り(笑)集め、今や50点ほどあります。
基本は身近な方の作品です。日本画の先輩、教えをいただいた先生。
そういった先生方の教えを思い出せるよう、感謝の気持ちも込めて手元に置いています。

そしてこの度、念願かない、本日その重岡先生の作品をアトリエに飾ることができました。
それがこの作品です。35センチほどの小さなブロンズですが
親子ののびのびとした生命力と人間愛を感じる素晴らしい作品。
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重岡建治作  『大地より生ずる』

本当に嬉しくて勉強になり、生きてる喜びや創作意欲が駆り立てられる。
芸術作品ってそういったものなんだと自分自身が収集しながら思う。
僕も人にそう思っていただける作品を作らなければならないとあらためて感じた。

とにかく先生の作品は素晴らしいので皆さまも伊東市に行きましたら
街中に沢山展示してあるのでご覧ください。

●重岡建治先生 プロフィール●
木彫、ブロンズ、大理石など様々な素材を手掛けている彫刻家の重岡建治氏。1977年に伊東市制三十周年記念として『家族』と題した彫刻を発表。現在までに13点が渚公園に設置され自然と一体化した作品群が親しまれています。「家族」「愛」「祈り」をテーマとした作品は、全国の公共空間に百体以上も在り、見て、触れて感動を伝えています。
 旧満州生まれの重岡氏は、家族で山口県に引き上げ、その後、熱海に移住。中学生の時に京都近代美術館で開催中の日展で展示されていた、日本の代表的な彫刻家・圓鍔勝三氏の作品に感動し、“彫刻”を志す決意をします。高校卒業と同時に内弟子となり、彫刻の基礎や木彫の道具の使い方、木の選択方法などを学びます。約五年間、圓鍔氏に師事した後、自宅に戻って彫刻を続け、二十五歳で日展に初入選します。
 世界に羽ばたくきっかけとなったのは、1960年に現代イタリア彫刻展(日本橋高島屋)で彫刻家・エミリオ・グレコの作品と遭遇したときでした。ローマで修行することを目標に懸命に作品を作り続け、三十五歳でローマに留学します。そこで国立アカデミア美術学校に入学し、グレコの指導を受けることになりました。デッサン重視の授業に戸惑いながらも前向きな姿勢を崩さず、彫刻家としての道を歩み続けました。
 帰国後は、前記の伊東市の大事業をスタートとして、現在では、日本を代表する彫刻家として活躍しています。アトリエを豊かな自然が魅力の伊豆高原に構え、「伊豆高原アートフェスティバル」の運営にも関わっています。

2011年09月11日

旅立ちまで・・・

絵描きにとって嬉しくもあり、切なくもあるのは作品の旅立ちです。
お納めする作品によっては二度と会えないものもあります。
優越は無いけれど、今回の作品はとても思い入れのある作品となったのです。

今から7年前になるが、今回のご依頼主でもある熱海の老舗の社長様から
一枚の作品の依頼をいただいた。
初孫様へのプレゼントの作品とのことでした。
それも少し不思議なご注文で、そのご家庭では代々のお子様に
テーマ曲をつけて子守唄になさっているそうで、その曲から連想する作品と言うことだった。
その時もとても考え、時間と心をこめて描き上げた。
その後もお孫さまが生まれるたびにご依頼を受け、描かせていただいている。

そして今回は『お孫さまのお名前』がテーマとなった。
そのご家庭では実に60年ぶりの女児のご誕生とあって、とても感慨深げのご様子だった。
それから何度も下図を描き、実に3枚の絵を描き上げた。
『ゆっくりと坂本君の時間のあるときに・・・』そんなお言葉に甘え過ぎてしまい
完成までに1年半もかかってしまった。

こんなにお待たせすることはめったにありませんが、喜んでいただけたら嬉しい。
そして完成したのがこの作品です。(詳細はギャラリーページに)

僕はいつも作品をお納めするのは大安吉日と決めている。

この絵の旅立ちの時は明後日です。
それまではアトリエにかけて僕自身が楽しむ唯一の時間です。

2011年09月12日

三浦のお姉さんの椅子

高校時代、僕は今の自分の原点でもある日本画教室に通っていた。
そこで沢山の方と出会い、今でも大変お世話になっている。

題にもある 三浦のお姉さん ともそこで出会った。
三浦のお姉さんはその当時、もう70歳にはなっていたように思う。
『坂本くーん、あなたこっちに来て一緒にお茶飲もう!』一番年下の僕をいつも気にかけてくれた。
影山さん、山口のおばあちゃん、三浦のお姉さんと僕とでいつも一緒に描いていたし、
展覧会の時も毎回当番を一緒にやった。

教室が終わると、家が近かった三浦さんのお宅にも良くおじゃました。
『お腹すいたでしょ?おにぎり作ってあげる』そう言っていつも俵型のお結びを握ってくれた。
2年前に祖母を亡くした僕にとっては、おばあちゃんのような存在だったように思う。

そんなお姉さんも急な病にかかり、病院での闘病生活をすることになってしまう。
『坂本君、元気にしてる?大丈夫?』 自身が辛いのにもかかわらず、
病院からも僕を心配してよく電話をかけてくれた。僕も時々お見舞いに伺うのが楽しみだった。

その後も病状は悪化し、2年後に亡くなってしまった。
本当に辛い別れだった。
葬儀からしばらくたって、ご兄弟の方から形見に何か貰って欲しいと言われた。
もちろんご遠慮申し上げたが、どうしてもと言われ
いつもお姉さんが座っていた椅子をいただくことにした。
何の変哲もない普通の椅子だったが、いつもお姉さんがゆっくり座っているのが印象的だった。

それから数年間、僕はもちろん、家族や沢山の客様に休息を与えてくれた。
僕の体重増加もあって、その椅子もだんだんと傷んでしまいこの3年ほど倉庫にしまってあったのだが
急に気になって修理に出すことにした。
元の空気を壊さないように、スエードの生地の色も同じものを選んだ。

そしてその思い出の椅子は今日から僕のアトリエの一部となった。

『坂本君、あなた丁度いいじゃない!』
三浦のお姉さんのそんな声が聞こえたような気がした。


2011年09月13日

新しい空気と秋の空

秋の爽やかな空気の今日、長泉町の日本画教室が新たに始まりました。

女性ばかり5名の新しい生徒さんでのスタートです。
今回はお若い方が多いようです(笑)。
月に二回、半年のコースで日本画の基礎を勉強します。
でも、みなさん初心者じゃあないですね。かなり上手いの。
半年後の3月には皆さんと展覧会を開催し、その後はサークルとして活動予定。
僕も心機一転新たな気持ちで頑張ります。

教室が終わるとスタッフの木村君が車で迎えに来てくれた。
来年に予定している企画展の打ち合わせやら、買い出しやら・・・。
帰り途、 『あ、木村君、韮山から伊豆スカイラインで帰ろう』 と僕。
先日、親友のMと一緒にドライブしてからこの道に感動し、すっかりハマってしまった。
通行料たったの100円で素晴らしい風景が味わえるのです。

今日もこんな秋の美しい空にパラグライダーが気持ちよさそうに飛んでいた。

『こんな素晴らしい場所があったんですね』と木村君。
『どう、良いでしょう!!!』と僕。
もちろん今までも何度も通っていましたが、新たに感じたのはMのおかげかな。


美しい空を見上げながらいろいろなことを考えていました。

人に生まれたこと。 親の有難み。 命の大切さ。 自分の小ささ。 友の大切さ・・・。
嬉しいことも、悲しいことも、苦しいことも常にありますが、
この世に生まれてきたことはやっぱり良かったんじゃあないかと・・・。
死は必ず来るんだけど、それまではとにかく毎日毎秒を大切に送りたい。
幸せは平等ではないけれど、僕には今が素晴らしく幸せなのかな・・とか(笑)。
絵描きの癖でしょうか、幸せだとついつい孤独感を感じるんですね。
美しすぎると時にその裏を感じてしまう。 まあ、仕方ないです、昔からだから。

とにかく、今年も美しい秋がまたやってきた。
それが何とも言えなく嬉しかった。

2011年09月14日

大相撲秋場所とMKB

今日も昼から長泉の日本画サークルに。この半年は2日連続通うことになる。
間もなく出品する秋の美術展の作品の仕上げ。
一年前に初めて日本画を始めた皆さんがこの一年で3作の本画を仕上げ、
今回は10号の作品を出品する。
どの作品も素晴らしい完成度で、その努力に感服する。
後ろ髪をひかれる思いだったが、夕方からお客様に大相撲にご招待されていたので
皆さんの作品の完成を確認し、
あとの授業は助手の下山さんにお願いして都内に向かう。

大相撲は今年2回目の桝席だ。
今回はお客様のご配慮にて、僕の中学時代の後輩と都内に住む親友も一緒に。
三島から新幹線に乗り、両国の駅に着くと親友Mは改札で待ってくれていた。
『先生~!』といつもの笑顔に安心する。
『ずいぶんと待ったんじゃあないの?』と僕。
30分前に着いたので全然待ってないですよとの返事。
僕だったら30分は相当待ったうちに入るけど(笑)。彼の器量の大きさがあらためて嬉しい。

国技館の入り口でお客様と後輩の兼吉が待っていた。
『ブデンちゃん、よく間に合ったわね』とお客様。

兼吉は国技館も相撲観戦も初めてとあってかなり興奮気味。
入り口で記念撮影までする(笑)。

その後はお茶屋の高砂屋の出方さんの案内でいつもの桝席に向かう。
普通は桝席は四人で一枡に座るのだが、今日は特別に二人づつ。


横綱土俵入りを観ながら、食事。
弁当に焼き鳥、寿司につまみ・・・。最初からビールにワインにとみな上機嫌。
いつも思いますが国技館サービスの食べ物はどれも美味しい。
初場所と変わったのはチョコレートのメーカーかな。前は明治屋だったけど。
あとは、ゆで豆から枝豆に。季節のモノでしょうが、僕はゆで豆食べたかった(笑)。

そうですね、大相撲自体が初場所以来の国技館。
いろいろな問題があったので、このようにまた観れるのは嬉しい限りです。


やはりまだまだ空席が目立ちますね。
大相撲ファンの僕としましては何とか頑張って毎日満員御礼を願います。
相撲の楽しみ方の一つとして掛け声があります。
間を見計らって『琴奨菊ーーーー!!!!』とか『白鵬ーーーーー!!!』と僕。
親友と後輩は恥ずかしがってやらない。
『あのね、これが楽しんじゃない!やりなさい、最後だからハクホーって言いなさいよ』
そう言っても『いや、先生、できませんよ』とM。
情けないねー(笑)。

そんなこんなですっかり秋場所を堪能しました。
その後も皆で秋の夜長を楽しみ、いつも熱海に来てくれる親友Mがどうしてもと言うのでそのまま銀座の某高級寿司屋で晩餐会。
せっかくなので某大臣も誘ったんだけど、SPを帰してしまったからとのことで残念。
店はなかなか、味はそこそこ、ネタはまあまあが正直な感想。
酒を酌み交わしながらいろいろな話をし、お互いの将来を語り合った。
しかし最近はMと会って食事をするのが一番楽しいです。
人柄か、空気感か。熱海にはいない感じの大物だ。

人間って大人になってから真の友と呼べる人とはなかなか出会わない。
僕は周りから友達が多いねって言われるけど、損得なく本当の自分をさらけ出せる
親友はなかなかいないもんだ。
彼とはまだ付き合いこそ短いが、今や真の友だ。この出会いに感謝している。

そういえば、僕が大相撲行くよーってツイートしたら、『出場するのー』って言ってた
フーコ淳ちゃんサニーの友人三人たち・・・。ありがとう・・・(笑)。

そうそう因みに題名のMKBってのは親友M・兼吉・ブデンの略です。
深い意味はありません。


2011年09月25日

絵の審査と僕にできること

第24回 ながいずみ美術展(長泉町・長泉町教育委員会主催)の審査の日。
この展覧会にも関わらせていただいて5年が経つ。

長泉町は文化にも非常に力を入れていてとても気持ちが良い。
役場の方の力もあるけれど、遠藤町長の気持ちが入っていることは大きいですね。
また美術展に関しても、審査員と美術展の実行委員会、
行政とのかかわり方もとても上手くいっている。
三島市の美術展の審査員も昨年からさせていただいているが正直、月とスッポンだ(笑)。
それが何故だかは分かっているが、この問題点を三島市美術展が改善できることは
多分ないのであえてここには書きません。
三島市役所の方は優秀ですよ。だけど・・・・・。まあまあ。偉い人がいっぱいいますからねぇ。

審査員は日本画が僕、洋画が岩崎慶太先生、彫刻は堤直美先生、陶芸は北村和煌先生です。
僕以外はみな素晴らしい有名な先生方です。
今回の展覧会は若輩ながら僕が審査員長という大役をいただきました。

特に彫刻の堤先生は日展の評議員というお立場で、今年も日展の審査員のお忙しい中。
『坂本君は今年も日展描いてるの?』といつも心配いただきます。有難いです。
洋画の岩崎慶太先生は僕の高校時代のデッサンの研究所の恩師。
その当時は慶太先生は恐くて・・(笑)。二か月前に大病をしながらすっかりお元気になっていて
『俺はゴキブリみたいなもんだよ。しぶといさー。』と笑いながらお話ししていた。
こうやって恩師と一緒に絵の話ができるのは本当に嬉しいです。
特に今回は絵の話を長い時間させていただいた。

僕は前にもこのブログで書きましたが、日展では今だに審査を受ける身です。
入選したり、落選したり。そんな僕が審査員として人の絵を拝見することは
とても重責ですが、地元の文化のためにと思い微力ながら続けていくつもりです。
そして何より自分自身の勉強になるのです。

僕らのような文化にかかわる人は社会貢献って非常に大切だと僕は思うんです。
普通の商売はなかなか町のためにってのは個人で活動するのは難しい。
だからロータリークラブとかJCとか奉仕団体があるんですよね。
まあ、これもそうは言っても商売上の繋がりを求めた人が多いから。半分以上が飲み会(笑)。
僕は20歳の時からボランティアで学校に行ったり、福祉施設に寄付をしたり
自分自身にできる活動をしてきました。
自慢とかではないよ、僕も多くの人に応援していただいて今があるもの。
こんな僕でも何か街のために小さなご恩返しがしたいと思い、これからも続けていきます。

さて今回の絵です。
とにかくみんな一生懸命に描かれています。
若い方から90歳を超える方まで、実に多くの方が絵を楽しみ、そして苦しんでおられるのが
よくわかる。見ていて涙が出る絵がありました。
今回もそんな絵を町長賞に選ばせて頂きました。
また、大賞にも日本画の方の作品を選んでいただくように頑張りました。

絵の上手い下手もあるのかもしれませんが、町の展覧会はある意味お祭りです。
公平かつ、その人の空気や人生を重んじたいと考えて臨んでいます。
そして、僕を育ててくださった熱海や伊豆、静岡の文化のために
これからも何かお役に立ちたいと思った一日でした。

2011年09月29日

慶太先生安らかに・・・・

『坂本先生ですか。長泉町役場のYです。実は訃報なんですが・・・・』

『え!!まさか慶太先生!!亡くなった!!??』僕。

『はい、まことに残念なんですが・・・・・』

驚きだった。信じられなかった。
つい4日前に長泉美術展の審査で会ったばかりだった。

7月にくも膜下出血で倒れ、大きな手術をしてすっかり良くなっていた。
何事も無かったような顔をして元気に話をされていた。
確かに頭には大きな傷があったし、少し痩せられてはいたが笑顔も
話し方も元気そのものだった。
『憎まれっ子何とやらですよ、俺はゴキブリみたいに不死身だー』って・・・・。

良くなったとは言っても、少し頭が痛いとは話していた。
やめればいいのに外では美味しそうにいつものパイプでタバコを吹かしていたっけ・・。

『今からもう帰るけど、車で駅まで送って行こうか?』
それが岩崎慶太先生との最後の言葉になってしまった。

高校時代の思い出は本当に沢山ある。
教室を怠けて慶太先生にこっぴどく怒られたこと、大学に合格し一緒になって喜んでくれたこと。
今、同級生で美大に合格し、その道で活躍してるみんなも彼の指導のおかげだ。
本当にみんな慶太先生に感謝している。

しかし・・・・悲しい。
先生、もっといろいろ話したかったよ。
本当に残念です。年老いたお母様と犬のことは御心配でしょうが、
今は安らかに・・・。ありがとう先生。